四旬節(洗足式)

アルフォンソ・プポ神父

四旬節は、とても象徴的なしるしで始まり、そして終わります。この二つのしるし、始まりには「灰のしるし」、終わりには聖木曜日の「洗足のしるし」が行われます。教会では何回も説教を聞きますが、すぐに忘れてしまうことが多いですよね。でも、この二つの特別な典礼のしぐさは、目で見て体に感じるしるし、一生心に残るものです。

私が小さい頃、聖木曜日のミサでは、人を押しのけてでも前の方に行き、司祭が12人の大人の足を洗う様子を近くで見たくてたまりませんでした。あの時の胸が高鳴る感じは、今でもよく覚えています。もしかしたら、「いつか自分もあの人たちのように、ぬるま湯が足の上に流れる感覚を味わってみたい」と思っていたのかもしれません。あるいは、「大きくなったら、自分も司祭のように人々の足を洗うようになれるかも」と思っていたのかもしれません。

北見地区にいた頃、土曜学校の子どもたちのためにサロマ湖でサマーキャンプをしたことがあります。小学生(ほとんどカトリック幼稚園の卒園生)が25人ほど集まっていました。その時、子どもたちにも洗足の体験をさせてみたいと思いついたのです。午後に互いに足を洗う練習をしたのですが、元気いっぱいの子どもたちはちょっと遊び感覚で大騒ぎでした。正直、私は少し心配になりました。「イエスのこの行動の意味を、子どもたちは理解できるだろうか」と。それが、夕方の野外での祈りの時間になると、子どもたちは大きな輪になり、真ん中には、十字架とろうそく、その前にたらいとぬるま湯の入った水差し、そしてタオルを置いて、静かに座っていました。歌と福音朗読のあと、二人の子が水とたらいを私のところに持ってきてくれました。私はひざまずき、左に座っていた子の足を洗い、丁寧に拭きました。それが終わると、その子が立って、今度は自分の左隣の友だちの足を丁寧に洗いました。こうして一人ひとりが、洗われる側にも洗う側にもなっていったのです。
その場では皆、驚くほどに心を集中させ、深い静けさに包まれていましたが、その小さな心に流れていた感動も、こちらに伝わってきたように感じました。子どもたちが、その時、体験したことは、一生忘れられない思い出になるでしょう。そして少しずつ、イエスの心をつかみ、他人を批判したり自分の弱さを恥じたりすることなく、互いに思いやりを持つことの意味を理解するようになるだろうと思いました。

皆様意義ある四旬節を過ごせるよう祈りたいと思います。主のもとに立ち返り、柔和で謙虚な心を持つ主から学ばせていただきましょう。主は、仕えられるためではなく、仕えるために、そして私たちのために命を捧げるために来られたのです。

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