大いなるものと小さい子どもたち
アルフォンソ・プポ神父
釧路の「BENTENゼミナール(海の見える街からの希望)」という団体から、講演をしてほしいと頼まれました。与えられたテーマは『大いなるものと私たち』です。
ここ数日、とても忙しい日々を送っていますが、なんとか講演の準備をしようとしています。何をお話しすればいいのだろう?と考えたとき、真っ先に頭に浮かんだのは「子どもたち」のことでした。不思議ですね!『大いなるもの』と『小さい子ども』だなんて!
しかし、まだ小さく、繊細で、すべてにおいて誰かの助けを必要としている小さい子どもをこの腕に抱くとき、私はまるでこの『大いなるもの』を抱いているような、神そのものを腕の中で抱きしめているような気持ちになるのです。
その子どもの見開かれた瞳の奥には、一体何があるのでしょうか。世界に一人しかいないこの子の心に、何が隠されているのでしょうか。私はせめてその子の名前だけでも覚えようとしますが、多くの場合、その子のことについてはほとんど何も知りません。それでも、その子は私に向かって両腕を伸ばしているのです。
力はなく、持ち物もなく、自分の気持ちを表現することもできませんが、その子は計り知れないほど大きな尊厳を持ち、生きていくうえでのすべての権利を持っています。また、彼らは保護者を盲目的に信頼し、その愛と笑顔だけで生きています。
私は、その子とその家族のことは何も知りません。両親の深い喜び、苦労、不安、夢、そして希望。この子が大人になったとき、両親のすべての愛と痛みを理解できるようになるのでしょうか。もしかしたら両親に反発し、離れていき、親が選ばなかった道を歩むかもしれません。そのような子どもが、親が年老いたとき、温かく世話をするでしょうか。それでも親の方は我が子を心の底から深く愛し、最高の贈り物として受け入れるのです。
イエスは私たちにこう言われました。「もし心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない!」と。
神よ、私はおごらず、高ぶらず、偉大なこと、身に余ることを求めようとしない。心静かに私はいこう、母の手に安らぐ幼子のように。心静かに私はいこう、神の前にある幼子のように、イスラエルよ、神を待ち望め、今より、とこしえに。 (詩編 131)
子どもが「ダッコ、ダッコ!」と私に求めてくるとき、私たちの助け、私たちの愛を必要とし、求めておられるのは神ご自身だと感じています。
先日、聖母マリアの被昇天を祝いました。

